|
ハロルド1世(Harold I、またはハロルド兎足王 Harold Harefoot, 1015年頃 - 1040年3月17日)は、イングランド王(在位:1035年〔britannia.com 〕〔イギリス王室 (公式ホームページ)。ただしハーデクヌーズの統治期間も1035年-1042年となっている。〕または1037年〔englishmonarchs.co.uk 〕〔archontology.org 。以上在位期間の相違は『アングロサクソン年代記』の記述の解釈による。そこには、1035年-37年のイングランド王はハーデクヌーズでハロルド1世は摂政だったと書かれてある一方で、統治期間は4年と16週間とも書かれてある。〕 - 1040年)あだ名の「兎足王」はハロルドの足の速さと狩猟家としての技術を指している〔Albert Le Roy Bartlett, ''The Essentials of Language and Grammar'', Silver, Burdett and Co., 1900, p. 38.〕。 ==生涯== ハロルドの父クヌーズ2世はイングランド、デンマーク、ノルウェー、さらに「仮祝言した(Handfasting)」妻エルギフ・オブ・ノーサンプトン(Aelgifu of Northampton)を通してスウェーデン王国のいくつかの王だった。クヌーズを父親とすることには疑問の声もあるが〔『アングロサクソン年代記』1035-1340〕、それはハロルドの王位に反対する者の宣伝だった可能性がある。 1035年11月12日のクヌートの死後、クヌーズとその妃エマ・オブ・ノーマンディーの子、ハロルドにとっては異母弟にあたるハーデクヌーズがデンマークとイングランド両方の正統な王位継承者だった。しかしハーデクヌーズは、デンマーク王国がノルウェー王マグヌス1世とスウェーデン王アヌンド・ヤコブ(Anund Jacob of Sweden)の侵略を受けていたために、イングランドの戴冠式に行くことができなかった。イングランドの有力者たちは、ハーデクヌーズ不在の難事のために、ハロルドを一時的に摂政に就任させるというアイディアを支持した〔。ウェセックス伯ゴドウィン(Godwin)はそれに反対したが結局ハロルドが王冠をかぶった。 1036年にエマと先夫エゼルレッド2世 (イングランド王)の息子たちであるアルフレッド・アシリング(Alfred Aetheling)とエドワード(後のエドワード懺悔王)がハロルドを退けようとしたが、ハロルドはその試みから免れた。 1040年3月17日、ハロルドはオックスフォードで亡くなった〔。ちょうどハーデクヌーズがデンマーク侵略軍を準備している最中のことだった。ハロルドの遺体はウェストミンスター寺院に埋葬された〔。同年6月、ハーデクヌーズが王冠を得た時、ハロルドの遺体は掘り出され、首を切られ、テムズ川と隣接する沼地に放り投げられた〔。ハロルドの支持者たちは後にハロルドの遺体を回収し、セント・クレメント・デーンズ(St. Clement Danes)というお誂えの名前の教会(Danesはデーン人という意味)に埋葬した。 抄文引用元・出典: フリー百科事典『 ウィキペディア(Wikipedia)』 ■ウィキペディアで「ハロルド1世 (イングランド王)」の詳細全文を読む スポンサード リンク
|